チェルフィッチュの身体性

チェルフィッチュの身体性に関してはよくわからない。
岡田さんが「今のすごくいい動きだ」と思った瞬間を私たちはしっかりと共有できるのだろうか?別に作者の感覚とわれわれの感覚との一致というのが最終的な「正解」ではないとは思うが、どんなところにわれわれはあの身体性の心地よさを見出せばいいのだろうか?

あの形態の芝居をやる上での雰囲気作り・基盤なのだろうか?それにしちゃあ、いろんなところで取りざたされすぎである。斬新性といった面でも別にどうでもよかったりする。



と、こんなことを書いているうちにこのことを考える上でいろんなチェックポイントが見えた気がする。
「舞台に立つということ」とかそんなようなことを、みんながいってるのが少しわかる気がしてきた。

わかるという感触を得るために無理に自分の中で論理展開しないように気をつけて考えよう。



上記は思考の道程として情けないが記録。


エンジョイに関しても考え中。