光と影

ギャラクシー賞テレビ部門受賞番組を見て語り合う会@門天ホールにいってきました。

その日は「裁判と放送」がテーマで

東海テレビ放送『光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日』
ETV特集「死刑囚 永山則夫〜獄中28年間の対話」

をみました。

両番組とも加害者側の論理・考えを追う構成になっており、この作品を見て、「事実とは何だろうか」そして、「テレビ屋としてスタンスの取り方」を考えさせられました。

裁判とは、 被告・原告ともに、自身が有利な状態になるように利己的な情報収集が行われ、その状況を加味して、裁判長は判決を下します。よって、ある事件が起こり裁判を行われるにあたり、そこには、被害者的事実加害者的事実、検察が被告を求刑通りの判決が下るように調達する検察的事実、被告の刑が少しでも軽くなるようにするための弁護士的事実などいろんな事実が存在する。

我々の毎日みるニュースに関しては、被害者的事実が一番にフィーチャーされ、そこに対し同情する流れができる。なぜそのような流れになるかというと、そこには直感的な痛みがあり、感情移入もしやすい。記号化しやすい。そして被害者に非はない。つまり、恨み辛みなど事件背景にいろんな文脈があろうとも、どう転んでも被害者は傷をつけられて可哀そうということで、被害者の色を白か黒か二分する際、必ず「白」というレッテルを張れる。

テレビは多くの人に見られている特性上、傷ついた側の論理や感情を組み、いわば正義の味方にならなくてはならないという宿命がある。(宿命とはいいすぎだが、現状をみると断定してもいいくらいの状況であることは確か)つまり、ここでテレビとしては「白」をより際立たされる放映をすることが正義となる。よって、世間は被害者的事実、検察的事実ばかりで埋め尽くされる。

光市母子殺害事件の被告は、被害者を絞殺し遺体を押し入れに入れます。なぜ、遺体を押し入れに入れたのかということ問われたときに被告はこう供述しています。「死体を押し入れに入れれば四次元の空間に連れてってくれて、ドラえもんがどうにかしてくれる」現実的に考えて、ドラえもんがでてきてどうにかしてくれるという事は絶対にあり得ないし、なんてこと言ってるんだと思いますが、被告が犯行現場では本当にそういう気持ちに陥ったということは、可能性としてあり得ることです。被告本人しか真偽のほどはわからず、我々では判断しかねます。これが加害者的事実であることは間違いありません。

週刊誌はこの供述を一般人の常識の範囲内で考えて奇天烈と判断し、被告をより「黒」のレッテルを押しつけるためのツールとして使用しました。よって、「黒」をより黒く仕立てあげることで、「白」を強調させられた。しかし、この番組は「白」を際立たせるような危険な世論形成に加担しがちなマスコミ報道に対し、加害者側の弁護団を追うという形で、加害者的事実、弁護士的事実をフィーチャーし、加害者の目線となって事件を追うスタイルをとっています。つまり、本当にドラえもんの発言を「黒」としてみなしていいのかと疑問を提示しています。

そして、関心したのは番組の作りです。番組はあくまで弁護団というグループを追うという客観性を用いて、放映をしてる。よって、この被告をかばっているということや事件の判決はおかしいという意見は番組(=会社)としてはしていない。あくまでも弁護団が言ってるだけ。その事実を報道しているだけだ。ということで、多様な見方のハザマにいることで、ここに中立性が保持されている。

個人―番組―会社で、それぞれ発言のレベルが制限されるのはやむを得ない。しかし、その中でも、一般の潮流に拮抗する形で意見する場合、反論を背負えるだけの論理を持ち合わせていれば、問題提示ができるのだと強く感じました。