ガリットチュウ単独ライブ

gyoumuyou2007-09-01


ガリットチュウ単独ライブ〜夏の終わりはガリットチュウ〜』@新宿サンモール

夏休みの最後の締めくくり、恒例のガリットチュウ単独ライブ。サンモール。広いけど遠い。駅から不安になる遠さです。

どれもおもしろかった。いやあ、笑った。しかし、なにかたりない。ビニール袋に空気を入れてパンパンにしようと思うのだが、穴がぼこぼこ空いてて常時8割膨張。そんな印象でした。
彼らは空気を入れるだけの力は存分にある。しかし、そこかしこからゆるゆる抜けていく。穴をしっかりふさげばいいじゃないか。いや、そういう問題じゃない。彼らはガリットチュウ。その穴もガリットチュウなのである。


ネタのつくりがなんというか特殊。ある程度客にボケを予想させてそこに対していかに裏切るかがネタをつくる基本であると思うのだが、ガリットチュウ、展開が読めない。大枠の展開は読めるのだが、セリフの展開が読めない。間が早すぎてとか状況が飛びすぎててとかじゃない。いくら時間があっても次この系統のボケがくるだろうことがわからない。だから、裏切るも何も、こちらの頭はただただ、ガリットチュウの脳内をゆらゆらといかだで流されている。そんな状態だ。

ガリットチュウのネタのつくり方は1点なのである。他の人たちは、現在の生活という基準点を元に変化を出すために2点でネタをつくる。絶対的にみせるか、相対的にみせるか。野性爆弾とかは完全に絶対的である。ありゃ、もうすごい。走れ。走れ走れ。
ガリットチュウである。ガリットチュウは絶対的にみせている時が多い。意味もなくジャストミートと連呼させたり、大事なM-1の予選で鮭茶漬けと1分半叫ぶのである。すごく好きだ。が、彼らは描写がうまいんだから相対的にみせるやり方もやっていいんじゃないかなとも思う。やれば絶対出来るもん、あの人達。でも、やらないんだろうな。

じゃあ、どうやったらやってくれるかっていったら、外圧が必要だと思う。強制力である。
彼らはむりやり今のスタイルを崩し、基準を作るようなことをしたくはないと思う。自分のやりたいことをそのまま舞台にかける今の状態がやりやすいだろう。でも、ガリットチュウをもっといろんな人に知ってもらいたいと思ったときには変化は必要である気がする。

テレビやラジオをやる人たちは依頼主として権力を持っている限り二つのことはやっていただきたい。
芸人を本当に自由に泳がせるか、圧をかけてしっかり見世物に落とし込み芸人に新しい活路を見出すか。
前者はとても理想的だが実際問題無理が生じる。でも制作者が躍起になって動き、なんの障害なくきもちよく芸人が動いてるところを提供してほしい。後者は芸人にとって非常に思わしくないかもしれないがそこはお互いの売れるということを考えた上での妥協点(相互一致点)で手を打つのである。そして、その視聴者からのリアクションを見て身を翻し層が厚くなる。

実際、上の人から大幅な路線変更をむりやり強いられてもガリットチュウあたりになるとうまく自分色に染めてやっていけるはずである。だから、彼らは、ガリットチュウを愛してるけど、愛ゆえに後者をとるそんなプロデューサーにあうべきである。あってくれ。おもしろいんだから。



ところで、熊谷さんは声が小さい。二本目のマニアックモノマネの付属品・超蛇足説明のところでまさかのかすれ声。はやい。開始20分でもうかすれ声。おい。がんばれ。あの時の熊谷さんはいい加減さが半端なユースケサンタマリアみたいな感じであった。うーん。やっぱり、そこが彼を愛すべきところである。

時間なのでいきます。また書き直すかもしれません。